鹿苑寺 其の3

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これはおよそ100年前の金閣(舎利殿) 長い年月で金箔も黒漆も剥がれてしまっていますが、歴史を感じさせる趣きがあります。この室町時代につくられたオリジナルは、1950年の火災により全て焼失してしまいました。この世に二つとない貴重な文化財が灰となってしまったのです。

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それが昭和25年に起こった「金閣寺放火事件」です。この文化財テロとも言うべき事件は、一人の学生の手によって行われました。1950年7月2日午前2時頃、上京区衣笠金閣寺町にある鹿苑寺庭園内にある国宝建造物・金閣から出火、その日は強風が吹いていたことも災いし、火は瞬く間に燃え広がり46坪の建物が全焼します。

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この火災で国宝の足利義満像(上の写真) 運慶作の観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩、春日仏師作の地蔵尊、大元禅師像も同時に焼失。数々の戦乱の世を生きぬき、先の大東亜戦争の戦火をも免れた貴重な文化財の数々が、一夜にしてすべて失われてしまいました。

004.jpg現場検証で普段火の気がない場所からの出火だったことや火元に布団があったことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者への取り調べが行われます。
その結果、同寺の徒弟で大谷大学の学生である林承賢(当時21歳)が事件後に行方不明になっていることが判明し捜索が行われました。
夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み、腹を切ってうずくまっている林容疑者を発見し放火の容疑で逮捕します。
自殺してからの発見が早かったことと、迅速な救命処置により林容疑者は一命を取りとめます。

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当初の取り調べでは「世間を騒がせたかったから火をつけた」「社会への復讐のため」などと言っていましたが、その後供述は二転三転し動機は曖昧でした。
なぜこのような凶行に及んだのか?この放火犯である林承賢なる学生に興味がわいたので少し調べてみました。

gyoson.jpg彼は舞鶴にある小さな漁村に生まれます。幼少の頃より吃音に悩み、それが原因で虐められ友人は少なかったそうです。内向的な子供だったようですね。
彼の父親は小さな寺の僧侶をしていましたが、病弱で寝たきりの生活をおくっていました。
林が中学に入る頃になると病状はますます悪化し、父親は息子の将来を案じて臨済宗相国寺派鹿苑寺住職に「息子を弟子にしてもらえないか」という内容の手紙を送ります。鹿苑寺では寺のお金で、徒弟を大学に進学させているということを知っていたんでしょうね。突然で面識がなかったにもかかわらず、この申し出に鹿苑寺住職は快諾したようです。
了承の手紙をもらって暫く後に、父親は安心したかのようにこの世を去ります。父親の死後、林は母親とともに京都に移り住み、京都の学校に通いはじめます。
鹿苑寺と言えば京都を代表する寺院、この寺で自分の息子は修行をして、お寺の援助で学校まで通わせてもらっている…母親の息子に対する期待は相当なものだったようです。最愛の夫を亡くしたということもあり、ベクトルが自然と息子に向かっていったんですね。過度の期待を息子に寄せる母、それに応えようともがく息子…既に事件への方程式は出来上がっているような気がします。

shugyou-sou.jpg林は花園中学、相国寺内にある禅門学院、その後大谷大学へと進学します。当初の成績は比較的優秀だったようですが、やはり友達と呼べる存在は少なかったようです。そんな内向的で非社交的な性格のため、鹿苑寺内での生活にも順応できませんでした。やがて「鹿苑寺の長老に自分は嫌われている」そんな風に考えるようになっていきます。理想と現実との埋められないギャップ…少しずつですが、確実に彼の心は病んでいきました。そうした心のバランスの乱れは、彼の学校での成績にも影響をあたえます。大学入学時上位だった成績は、3年になる頃には最下位まで落ち、学校に登校しない日も増えていきました。

学内においても鹿苑寺内においてもまわりは全て敵、唯一の優位性であった成績までも地に落ち、ついに彼の自我が崩壊を始めます。孤独感や焦燥感…心の病は時として、反社会的な行動へと駆り立てることがあるようです。頑張っているのに結果が出ない。それは自分を取り巻く環境が良くないからだ…相談する親しい友人もいない孤独な彼のやり場のない怒りは、やがて鹿苑寺に向けられていきます。そして彼の中に渦巻く怒りや不満は、紅蓮の炎となって金閣寺を焼き尽くすこととなります。

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高度成長期を前にした当時の日本は「がんばる」のが当たり前、努力がなによりの美徳とされた時代です。そんな中頑張れなかった彼は、やはりマイノリティだったんでしょうね。事件後、そんな彼の思いは誰にも理解されなかったようです。ストレスの多い現在社会ならこのような事件は結構ありますよね。何もせずに不満を募らせ、会社を困らせようと冷凍食品に毒を入れた事件とか…。

img_706647_31803418_3.jpeg当時この放火事件は動機不明のまま「僧侶見習いの若者が歴史的美の象徴を破壊した」と、文学者たちの強い興味を集めました。作家の三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して、金閣における美に憧れと反感を抱いて放火した」とこの事件を解釈し、小説「金閣寺」を発表。水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により、美の象徴である金閣を放火した」とノンフィクション「金閣炎上」の中で分析しています。いずれの解釈も少々文学的すぎますよね^^;
逮捕後、林は懲役7年を言い渡されたのち服役しますが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院した後の1956年3月7日に病死します。享年26歳。遺骨は逮捕後すぐに汽車から保津川に投身自殺した母親と共に、舞鶴市安岡の墓地に並んで埋葬されました。

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なんともやりきれない事件です。頑張っても結果の出ないことなんて社会ではよくあることで、結果がともなうときの方が希ですよね。大切なのは結果ではなく、そのプロセスだと思います。
「吾唯足知」(われただたるをしる)と言う言葉がありますが、充分ですと思う心を持って、欲望を無限に膨らまさない。もっとこうなれば…その思いが、現実とのギャップを生みだします。彼も負の連鎖じゃなく、経済的に苦しいはずの自分が大学にも行かせてもらって、何の生活の心配もない…「充分満ち足りている」という発想ができていたら、このような悲劇にはならなかったような気がします。そう言えば現在の鹿苑寺の総門にはこのような五戒が書かれています。2が今言ったことに近いですよね…。

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007.jpgキーアイコンを失った京都

写真は焼け跡に立ちつくす村上慈海住職。代々大切に受け継がれてきたものが、自分の代で途切れたことによる虚無感は、計り知れないものだったと思います。この後、寺側は再建に乗り出しますが、世論は「放火をするような弟子を養成するとは」と冷ややかな対応だったそうです。住職自ら「金閣再建」と書かれた袋を下げ黙々とつじに立ち続け、支援の輪は徐々にですが広がっていきます。金閣はやはり京都には無くてはならないもの、という思いは京都人の中には少なからずありますしね。

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そして村上慈海住職らの行脚で集められた浄財と国庫、京都府・市の補助、地元経済界の支援などによって3千万円の工費が集まり再建が開始されます。3千万って聞くと少なく思いますが、昭和30年の国家公務員の初任給が8700円ですから、現在の価値に換算するとおよそ20倍くらいでしょうか。焼失から2年、ようやく本格的な再建工事が始まりました。

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柱の隠し穴から発見された木片。江戸時代の修理の際に差し込まれたらしく「延宝2年きのえとら大工久五良 運藏主(僧侶 志加住人谷口某)」と墨で記されています。再建にあたり焼け跡も綿密に調査されました。

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焼け跡から拾い集めたちょうつがい、釘かくし、漆の木片などは再建の貴重な資料として大切に保管されています。

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焼失前の金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情でしたが、修復の際に創建当時の古材を調査した結果、古材から金箔の痕跡が検出され本来は外壁全体が金で覆われていたことが判明します。このことから再建は焼失前の姿ではなく、創建当時の姿を再現する方針に決められました。

京都大学の村田・赤松両教授、府教委の後藤技師など古建築の権威が、明治期の修理の際に作成された詳細な図面や古文書・焼損材に基づき、軸組・内部造作・柱間装置などの様式を決定。また、多くの建築学者や文部技官の協力を得て、後世の修理で創建当初の姿を失っている個所を排除し、可能な限り創建当時の姿に近づくよう何度も設計を見直したそうです。

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材木は、尾州桧の最高のものを原木で仕入れ、良い部分を選りすぐって現場で木挽きしたものが使用されました。写真は材木の搬入の様子。

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棟梁の木村明治氏の指示により次第に楼閣が組み上げられ、金閣が徐々にその姿を取り戻して行きます。

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一層目を除く壁内外、高欄や垂木先端にいたるまで、漆を下塗りした上に静かに金箔が貼られていきます。二・三層の床には黒漆を塗り、乾燥したら砥石で磨きをかける…この工程は6度程繰り返され、まるで鏡のような光沢を放つ見事な仕上がりになりました。

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焼失より5年、工期3年を経て再建され落慶式を迎える金閣。学者、宮大工、金箔職人…各分野のエキスパートが英知を集結して金閣は1955年に再建されました。

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荘厳な輝きを放ち静かにひっそりと佇む金閣…哀しいまでの美しさの裏には、こんな物語があったんですね。
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